死にたい、自殺、希死念慮に陥ったら

自らの経験を通してみなさんに送りたい

小学生編

 

初めまして。

 

自己紹介にも書いた通り、私自身、これといって免許や資格を今はまだ持っていたりはしません。メンタルケア心理士などを今勉強しているところです。

なので、そんなことわかりきってる!!と思うこともたくさんあると思います。ただ少しでも誰かの心が救われるならと、書き記していこうと思います。

 

人は、その人それぞれの環境、家庭で生まれます。なので十人十色、まさに77億通りの人生があります。なのに今の世の中には自殺や自傷行為、自らを大切にできない人が多いという現実があります。どうしてその人がそうなるまで、その人の心も体もを救うことができなかったのだろうかと、私は思います。

 

きっとそれは、みんな自分自身に精一杯で自分の子供や、それこそ自分自身の辛さにも気づいていないことがあるんじゃないでしょうか。人はロボットではありません。人を生み出すのは人です。だから人の心を壊すのは人ですが、人を救うのも人であると思います。

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まず初めに、私が経験したことを話します。

 

  • 小学生のころ

小学生のころ見た目がよくないという理由でブタ、ブサイク、死ね、と言われ、学校へ行くと白い上靴がズタズタに切り裂かれていました。それがよくありました。

それを見た教師は、つらいのはお前だけじゃないんだから我慢しなさいと言いました。なので頑張って耐えようと決めました。

 

私は事情で母子家庭で育ち、1歳上の姉と父親違いの姉がさらに2人いました。2人の姉は私が小学生のころには結婚して、子供もいました。私にとっては姪と甥ですね。

 

そのころ夏休みになると、姪が私の家に泊まりにきていました。しかし、1歳上の姉はその姪を隠れてひどくいじめていました。

それは母の彼氏からの性的いたずらや、母からの色んな情緒的、身体的虐待からだと思いました。でもこのままだと姪がいたたまれなくなりかばいました。

 

すると姉はこう言いました。かばうんならあんたも同じ目にあう、と。これは母からの虐待で、私が姉をかばったときに言った言葉そのままでした。そして、その暴力は私へと向かうようになりました。

確かに学校、家にも居場所がなく、放課後ひそかに泣いていたときもありました。

 

まだそのころ虐待が虐待を呼ぶ、いわゆるチェーン現象という言葉は世間に浸透していませんでした。なので私の目には、親の背中を見て育つということを実感しました。おびえていました。

 

そして夜な夜な母は仕事のストレスで精神的に疲弊し、私たち姉妹を山林に車で連れていき、殺して心中するということがとても多くなりました。

夜中、よく連れていかれるので恐怖心は麻痺し公衆電話で友達にサヨナラをいうことしかできず、次の日には、日中眠たくて、居眠りをしてしまっていて、勉強についていけなくなり一人居残りをさせられることがよくありました。なので未だに恥ずかしながら4桁以上の割り算のひっ算ができません。3桁までは大人になってからドリルで勉強しました。

 

しかし、唯一の救いがあったのです。それは田舎から母の兄のお嫁さんに虐められて、母を頼って出てきてくれたおばあちゃんの存在でした。

私が小学4年生の事にはおばあちゃんがいて、私はおばあちゃんが好きだったので、学校でいじめられても、家に帰ればおばあちゃんと時代劇を見たり遊んだり、料理を教えてもらったりしていました。

 

心がすさんでいた姉はおばあちゃんを"居候うのくせに!"と痛めている膝を蹴るなど、虐めていましたが、泣きながら仕事終わりの母に、姉の事を打ち明けたおばあちゃんを慰めてはいたものの、なぜか母は姉を叱りませんでした。

 

本当は母にとってもおばあちゃんは癒しや勇気づけてくれる存在だったはずなのに。その間は母の彼氏が姉に性的ないたずらをすることは減っていました。

 

しかし別れというのは時に突然やってくるのですね。私が6年生になったとたんおばあちゃんが脳梗塞で亡くなりました。実をいうと医療ミスがあったのです。 

 

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そこから母はもっと精神的に、鬱になっていきました。

まず、朝起きれなくなりました。目覚まし時計を何個セットしても起きれないのです。そして脅迫概念が強くなっていきました。

ガスの元栓はしめたか、鍵はかけたか、出発して30分経とうが気になって、家に帰ることがよくあり、仕事の取引も破綻しはじめるようになりました。

そして夜な夜な「お母さん・・・どうして一人で逝っちゃったの・・・」と泣いていることをよく見かけました。

そのころ日本はまだ鬱などに理解が少なく、精神科、心療内科”なんて・・・”という認識しかなく、母自身、戦中に生まれ、戦後の気合で生きてきた人だったので、病院に行くという選択肢がなかったのでした。

 

そんな時です、朝起こしてもらうことを母や生前のおばあちゃんに頼っていた私たちの休学が続いて、私の担任、姉の担任、学年主任が朝、突然家にやってきました。

その時、先生たちが言いました。”どうして学校を休ませているのか、朝起きれないなんてそんなことは甘えてる証拠だ”と。

そう言いながら母に親の役目ができてないと責め立てました。

 

その時私は思いました。この人たちが今、目の前でやっていることは、社会的に見れば”教師として”はいいことだと思っているんだろうな。

でも”人として”みれば、まず私たちの家に電話をかけるなり、私の友達にきいてみるなり色々あったのではないか?と。

なのにいきなり家に朝から押しかけて、母に心無い言葉を投げかけるなんて、教師とは、先生とは?と疑問に思うようになりました。

 

きっとまだ大切な支えを失ったことのない人に 、精神的なつらさが体に出てる(心身症)ってことをどれだけ訴えても、理解できるはずはないと私自身、子供心にうすうす分かってきてはいたんだと思います。

 

小学生編は簡単な説明は終わりです。